3月11日で、東日本大震災から3年目を迎えました。思いを新たにして、震災と復興について考えてみたいと思います。
はじめに、震災で被災された方へのお見舞いとともに、亡くなられた方のご冥福を心よりお祈り申し上げます。加えて、復興支援へのご協力、お心遣いを頂いた方々のご厚情に感謝申し上げます。
この地震は東北地方太平洋沖地震と呼ばれ、マグニチュード9、岩手県沖から茨城県沖までがすべてが震源域でした。地震と津波による大きな被害は東日本大震災と称され、死者・行方不明者は18,517人となっています(2014年3月10日:警視庁)。地震の規模だけでなく、被害の規模は歴史上最も大きなものでした。避難者は最高で26万人を越え、未だに不自由な生活を強いられている方がたくさんいます。
震災の記事を引用して、当時を振り返ってみましょう。“3月11日(金)14:46予防接種の最中に、突然の轟音(聞こえたような気が)と、とてつも無い大きな揺れが。あまりの大きさで覚えてないけど、時間も長く、立ってられないほど。患者さんたちの大きな悲鳴も飛び交う状況。たまたまクリニックにいた4組の家族とともに、スタッフは抱きあいながら余震のなかで冷静に対応...”。
今でも思い出すだけで、ぞっとする思いです。地震の特徴は何と言っても、その長さでした。まして地震を感じてから最大震度まで30秒もあり、仙台市では3分程度の大きな揺れが続きました。やっと地震の揺れが収まり、予防接種に来ていた患者さんとともに、笑顔でピースサインの写真を撮ったことを思い出します。しかし、その裏想像もできないような津波が押し寄せてくることを知る由もありませんでした。停電だけでなく、情報が遮断され、時に車のテレビを通して流れてくる被災の状況をみるたびに、現実とは思えない不思議な感覚とともに涙が溢れるばかりでした。
何はともあれ、小児科医としての使命を果たすため、避難所巡回、そして救護所への出務、更には長年取り組んできた情報発信に努めました。災害時における情報発信の重要性は以前から認識し、停電にもかかわらず発災後30分でTwitter、1.5時間にはBlogで情報発信しました。さらに、早期診療再開も重要と考え、断水の中3日目に再開に漕ぎ着けました。再開後はMail Newsを通して患者さんとコンタクトがとれ、放射線等に関しての情報を発信できただけでなく、多数の激励や心配メールを頂きました。心配メールは海外赴任、北海道転居の患者さんから頂き、かかりつけ患者さんのありがたさとコミュニケーションの重要性を再認識しました。
仙台小児科医会では震災後“子どものこころのケア”を目的に、仙台市と協力して、幼児健診で問診票を使用してトラウマの評価と事後指導を行っています。仙台小児科医の会長としても、微力ながら子どもたちだけでなく保護者の支援のために活動していることを少しだけ付け加えておきます。
東日本大震災から3年を迎えました。長かったような短かったような3年。クリニックの周囲では、震災を思い出すものさえ無く、一見平穏な生活に戻っているように見えます。しかしながら、被災地を抱え未だに避難生活を余儀なくされている地域では、様々な問題が山積して、復興とはほど遠い状況です。更には、福島県では目には見えない放射能の影響で、未来さえ見えない状況です。
友人が来仙した時には被災地に足を伸ばしてもらい、先日も荒浜から閖上までを案内してきました。遠目には何もないように見える風景も、近付いてみる草に隠れたコンクリートの土台、そして子どもたちの笑い声が聞こえない小学校、慰霊塔に供えられたおもちゃ、悲しみを宿した深い爪痕が隠れています。
海から吹いてくる風でさえ、悲しみと怒りをまとっているように感じ、日和山からの風景は見るたびに目頭が熱くなります。気仙沼の墓参りの帰りに、南三陸町に足を伸ばしてみました。防災対策庁舎の悲劇もあり、足を運ぶことにためらいがありました。やっと通った国道45号線のいたるところに津波浸水の案内板。JR気仙沼線の清水浜駅では、20mの高架橋線路が流され、波を受けた駅舎は廃墟となり海岸線を走る気仙沼線の美しい眺望は失われたままです。
被災地はどこも、2011.3.11からの時間が止まっているようでした。
3年を経過し、復興のために何ができるかを考えながら、新たな気持ちで取り組んでいきます。皆さんも、更なる支援をよろしくお願いいたします。
何もできないという思いの人もたくさんいるでしょう。でも何もしなくてもいい。何もできなくても大丈夫です。被災地、被災者のことを考えるだけ、思うだけ、そして“忘れないこと”が最も大事な復興支援となるのかも知れません。
閖上日和山の風景(2014.3) |
止まったままの時計(2011.4) |
廃墟となった清水沼駅(2014.3) |